ここ最近やってたこと=高校生活終了のお知らせに際しての思ひ出作り。つまりは遊んでいたということである。
13日
友人3とカラオケ+メッカ探索
14日
大学の入学手続き(片道なんと二時間半)
15日
高校三年生を送る会的な何か
16日
僕たち~私たちの~卒業式~
17日
別の友人と美術館鑑賞+マックでお茶
18日
17日と同じ友人と別の美術館鑑賞+サイゼリアでお茶
19日
珍しく家で家事の手伝い。初めて夕食を一人で作った。
20日(今日)
しずくさんと浅草に卒業旅行
なんと言うモラトリアム生活wそして今後の予定。
23日
友人3を含めた愉快な仲間たちと共になにやら遊ぶ予定。
25日
以上の友人以外の友人と「人間失格」を見に行く。
ここ最近の交通費は膨大になった(今日までの交通費だけでトータル8000円飛んだんじゃねw)が、大学行っちゃうとこんなに集まる機会もないだろうから今のうちに卒業の思ひ出を大量に作っておくという魂胆である。ちなみにそのために今年は寄せ書きをとにかく親しそうな人に片っ端から書いてもらうことにした。寂しくなったときに見返して思い出に浸れればいいなあ、という感情の成れの果てである。
思ひ出で思い出したが(笑)今日14歳当時の私から18歳の私に向けてのハガキが届いた。ビックリしたのは当時の私の推測が異常なほど現在の私に通じていることだ。今となっては当時自分が何を考えていたのかなど全く分からないが、なぜか私は妙に世の中を悲観的に見る風情があって、はがきに並べられている文字の中にもやたらと否定的な表現が目立つ。当時の私は「今、あなたの考えていることを考えています」といったことを書いているが、今の私からすれば「そんな片意地張らないでもっとのんびりしてもいいんだよ」といってやりたい気分だ。中学三年生に上がろうとするという心境で大学を得て卒業した心境を察することが可能なのかといわれると、少しばかり疑問が残るし、いささか背伸びしようとしているようにも見える。まあそんな風に扱われることが当時の私としては嫌だったのだろうが(実際そのとき書いた日記を見返してみてもそう思えてくる)、あのときの心境では自己を保つにはそうするしかなかったのだろう。今となってはどうしてそこまで自己に執着するのかに疑問を覚えるほどだが。私は最初から自己にしがみつき続けるだけの力はなかったのだ。
脱線したので話を戻そう。とにかくその、ちょっと背伸びをしたがっていた自分が、そのときの心境すら分析する以外に知る方法のない現在の私の心理をのぞこうとしている。私はその視線を寛大に受け止めようとは思うのだが、いかんせん当時の私が望んでいたような心理を得ているかといわれるとそんなことはない。つまりこれは寛大に受け止めるということとは異なる。というか、価値観が拡張され、ミクロのものを感じ取る感覚をすっかり忘れた現在の私は、マクロを顧みず無鉄砲にミクロの方向へ突き進む過去の私とは思考パターンが別人のように違う。文学者としては過去の私の方が向いていたといえるが、一般的思考を理解してそうだが理解していない辺りに人間の薄さが感じられる。人間の薄さは、そのまま物語の薄さに変化してしまう。要はもっと他を見る必要があったねということだ。他の声を聞いて人間の厚みを得ることが、当時の私には必要だった。今は過去よりは遥かにマシな印象があるのだが。
人生をプロット(固定)していくための一番簡単な作業は日記を書くこと、そのときの思考を文字にしておくことだと思う。そうすればあとで読み返したときにどういうことを考えて現在の価値観に至ったのかや、そのときの価値観が読み取れるし、単純な日常風景の記録にもなる。これが未来の自分に読ませると意外と楽しんでもらえたりする。今の私が14歳の自分を見つめて、文章から当時の様々な心理を導き出そうとしているのと同じことだ。だから私は思い出を作って綴る、そして日記を書く。思い出の結晶を時々掘り返しては眺めているのが楽しいからだ。
…暇すぎるのか知らないが書いてたらいつの間にか駄文になってたwとりあえず寝よう。
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