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全国水平社創立百周年記念映画『破戒』ネタバレ感想(※原作と比較あり)

全国水平社創立百周年記念映画として公開された映画「破戒」。
言わずと知れた島崎藤村の代表長編小説が何と2022年のこの度六十年ぶりに映画化されることになりました。
TwitterのTLで情報を入手するやいなや私も絶対に見に行くと強く心に決めながらも諸々あり公開期間ギリギリになった本日ようやく見に行くことが出来ました。地元だと上映館が県内に一件しかなくて本当に焦った。(しかも地味に遠い)無事に見に行けて良かったです。

感想について色々言いたいことはあるんですがまず第一に声を大にして言いたいのは

六十年ぶりにこの作品を世に送り出してくれてありがとう!!!!

ということです。何ならカラー映画にしてくれてありがとう、と、差別問題に関心のある監督に恵まれた映像化になってくれてありがとう、も入ります。とかく日本文学史に名の通った、そして邦画史にもきっちり名が残っている作品が、安易な客寄せではなく「全国水平社創立百周年の節目」という明確な意図を持って制作されたということに一島崎藤村読者として敬意を表したい気持ちでいっぱいになりました。
これはどちらかというと映画そのものの感想というより映画を鑑賞した後パンフレットを読んだ感想になってしまいますが、監督も脚本家も『破戒』の持つ「差別に対する普遍性」にフォーカスをし、原作を読み込んだうえで「現代人に響くための構成にするにはどうしたらいいか」というのをきっちり考えていたことを知ったからです。元々差別問題に対して関心のあった前田監督が五年前より水平社創立百周年の節目の映画として話を持ち掛けられたのがこの映画制作のきっかけであるそうですが、『破戒』はこれまで二度モノクロ映画で映像化されているだけに、現代で挑むには難しい作品である筈で、にもかかわらず原作の重々しさを残しつつ現代人が見ても当時の歴史観を感じつつ人間の心の中に誰しも持ちうる差別意識に関して目を向けられた作品に再構成されていると感じられる、実に興味深い作品となっていると感じました。

詳しい感想は本編とパンフレットのネタバレになりますので続きからどうぞ。
主に原作との相違点等を考えながら書いた内容になります。




パンフレットを読んだうえで原作読者の私がポイントになっている所などをいくつか備忘的にご紹介しておきたいと思います。

○部落出身者に対する呼称について
まず部落出身者の呼称に関して、原作では「新平民」となっていますが、本作では「穢多」とより直接的な差別用語を用いています。個人的に原作『破戒』を読んでいた私が一番驚いたのはこの部分でした。原作では「新平民」という言葉が部落出身者を表す単語として何度も用いられますが、一方で映画の中でこの言葉が使われるのは新聞で猪子蓮太郎が「新平民の獅子」と表現されている部分に限られています。
作品の冒頭で「直接的な差別用語を用いています」という注意書きさえ表れるのはこうした事情を考慮してのことなのでしょうが、そこまでして「穢多」という表現に拘った理由は何なのでしょうか。その答えはパンフレットの脚本家インタビューに答えがあります。
原作にはないシーンの一つに猪子蓮太郎の演説シーンがあります。その中で「我は穢多なり。されど我は穢多を恥じず」という言葉が出てきます。これは丑松も購入した猪子蓮太郎の著述『懺悔録』の冒頭ですが、このシーンを脚本家の加藤正人氏は「この言葉をセリフとして使いたかった」とインタビューの中で書いています。これまでの映画『破戒』で一度も使われなかった「穢多」という言葉を敢えて作品全体で使っていたのは、この追加シーンでの印象的な猪子蓮太郎の台詞を際立たせ、意味を伝えるために敢えて使った、というのが狙いであるようです。
確かに映像化にあたって猪子蓮太郎のこの衝撃的ともいえる告白を視聴者に印象付けるには、やはり猪子蓮太郎本人の口から力強く言わせるのが一番効果的であると思えます。意図的に用いられているからこそ全体を通して意味も分かりやすく、そして猪子蓮太郎の力強さも感じられる非常に丁寧な描き方であると言えるでしょう。
藤村が『破戒』を書いた当時はそれこそ部落出身者が身近にあったということで「新平民」とすることが間接的に当事者への風当たりを和らげていたのでは、とも考えられますが、このように映像の中で直接的に「穢多」という差別用語で表現しまえるのは、部落差別問題が時代を経て徐々に薄くなってきている現代だからこそできる表現である気がします。

○原作との相違点
パンフレットでも触れられていますが、映画「破戒」には原作にはないエピソードがいくつかあります。それを具体的に見て行きたいと思います。

・お志保に心惹かれていく丑松の場面(二人で与謝野晶子を読むシーン)
まず大きく目を引く相違点としては全体的にお志保が作中で丑松に心惹かれていくシーンが印象的に描かれていますが、これらは原作にない描写です。原作ではお志保は寧ろかなり影が薄く、蓮華寺住職の好色の被害に遭う憐れな女性であり、最終的に丑松と共に新天地へ旅立つという描かれ方をするのみとなっています。しかし本作では丑松との最初のシーンから与謝野晶子を愛読している女性となり、二人が徐々に心惹かれていく様子が描かれています。
お志保が与謝野晶子を読むこと自体も、最後に勝野文平に反抗するシーンなども脚本での追加要素となりますが、これは脚本家が原作発表当時にヒロインが弱いとされた指摘を受けてある程度のキャラ付けを付加したためだそうです。
即ち、お志保と銀之助の関係性に本作がフォーカスしているのは原作の弱点を補おうとした結果であると言えます。これは現代映画として世に送り出すには原作ありの映画を作る上で意味のある改善と捉えることが出来るでしょう。ある意味原作でみることの叶わなかった部分の補強としてはよく考えられた手法かと思います。

・丑松の教師像と生徒周辺の人物関係の変更
主人公・丑松は彼が生徒たちから慕われている教師であるという記述は有りますが、原作では彼と生徒たちとのやりとりは最低限度にしか書かれず、丑松がどうして人気なのかはそれほど読者に伝わってくる情報は多くありません。お志保との関係上、省吾の家を訪問するシーンや、第五章(四)にテニスをする仙太に同情して仲間に入ってやるというシーンがありますがそれ以外は基本的に丑松は生徒と交流するような描写はそれほどなく教師としては生徒を見守っている状態が多く、基本的には教師や蓮太郎に起こるドラマの中に巻き込まれていく点が中心に描かれます。
しかし今回の映画ではその人気教師である、という部分も仙田という穢多の少年に上等な帳面をあげたエピソードとして映像に盛り込まれています。仙太のぼろぼろの帳面を見かねた丑松が仙太に帳面をあげるシーンは、教師としての行動に加え、丑松が自身の出自と同じ少年に同情する教師としての側面が考えられており、教師・丑松の温かさを感じるシーンです。
このシーンは原作の省吾に帳面をあげようとしたけれども母親が怒るからと受け取ってもらえなかった部分をやや改変して仙太に渡すことにしており、加えてその穢多の少年仙太に、お志保の弟・省吾に勉強を教えるように言ったりと丑松は教師らしく色々と世話を焼いたりしています。
また少年たちの周辺の登場人物の関係性も改変されています。作品冒頭で宿屋から追い出される穢多の大日向重蔵は、原作では主人公の丑松の渡米を手引する人物として後半で再登場しますが、映画の中では丑松はテキサスへは渡らず、代わりに「仙太を上の学校に上げてやってほしい」と頼む相手になります。しかもこの大日向と仙太が爺孫の関係になっているのだからこれは驚かざるをえない。(原作では大日向と仙太に特に関係性はない)この部分は丑松自身の結末の変更(原作ではテキサスにわたるが、映画では東京で再び教師を目指す展開となる)もあり、その変更に従って大日向の関係性を仙太と爺孫にすることで登場人物のヒューマンドラマを盛り上げるのに一役買っているように思われます。

・一番最初に出自を明らかにする相手が銀之助だったシーン
原作では銀之助に丑松が出自を明確に告白するシーンはなく、銀之助は周囲の噂から何となく丑松の出自を察して支援する(※第十九章の(三))、という方向性になりますが、映画の中では銀之助は最初に丑松の出自を告白される相手になります。
この改変も個人的には映画を見た段階では「いや丑松が初めて出自を告白するのは生徒の前じゃないと意味がないだろう!」と非常に違和感があったのですが、パンフレットに書かれたインタビューを読むことでその真意を理解できました。脚本家インタビューの中で、物語の中で一番重要なのは銀之助であり、周囲に合わせて無意識のうちに当事者を差別してしまっている姿が現在の私達にも重なる部分である、と言われていたからです。
映画の中で銀之助は、周囲の教員に合わせて部落出身者を差別し友人である筈の丑松も傷つくようなことを無意識に断言してしまいます。しかし、いざ当事者が身近にいたという事実を知ると、これまでの非礼を申し訳なかったと素直に詫びるのです。これは現代人である我々が同じようなことを無意識にしていないか、もししていた場合、当事者を目の当たりにしたら素直な気持ちで接するよう教訓的な意味合いを持つシーンとなっています。これは差別を主題とした映画を描くのであれば非常に意味のあることで、心の動きでお互いを察しているという文学の在り方とは根本的に異なる表現の仕方、現代人にも通じる意味ある改編であるということができると思います。

(※第十九章 (三)引用)…これは原作の銀之助が何となく丑松の出自を察するシーン
『見給へ、君があまり沈んでるもんだから、つまらないことを言はれるんだ――だから君は誤解されるんだ。』
『誤解されるとは?』
『まあ、君のことを新平民だらうなんて――実に途方も無いことを言ふ人も有れば有るものだ。』
『はゝゝゝゝ。しかし、君、僕が新平民だとしたところで、一向差支は無いぢやないか。』
 長いこと室の内には声が無かつた。細目に点けて置いた洋燈ランプの光は天井へ射して、円く朦朧もうろうと映つて居る。銀之助は其を熟視みつめ乍ら、種々いろ/\空想を描いて居たが、あまり丑松が黙つて了つて身動きも為ないので、終しまひには友達は最早もう眠つたのかとも考へた。
『瀬川君、最早睡ねたのかい。』と声を掛けて見る。
『いゝや――未まだ起きてる。』
 丑松は息を殺して寝床の上に慄ふるへて居たのである。
『妙に今夜は眠られない。』と銀之助は両手を懸蒲団の上に載せて、『まあ、君、もうすこし話さうぢやないか。僕は青年時代の悲哀かなしみといふことを考へると、毎時いつも君の為に泣きたく成る。愛と名――あゝ、有為な青年を活すのも其だし、殺すのも其だ。実際、僕は君の心情を察して居る。君の性分としては左様さうあるべきだとも思つて居る。君の慕つて居る人に就いても、蔭乍かげながら僕は同情を寄せて居る。其だから今夜は斯様こんなことを言出しもしたんだが、まあ、僕に言はせると、あまり君は物を六むづヶ敷しく考へ過ぎて居るやうに思はれるね。其処だよ、僕が君に忠告したいと思ふことは。だつて君、左様ぢや無いか。何も其様に独りで苦んでばかり居なくたつても好からう。友達といふものが有つて見れば、そこはそれ相談の仕様によつて、随分道も開けるといふものさ――「土屋、斯かう為たら奈何どうだらう」とか何とか、君の方から切出して呉れると、及ばず乍ら僕だつて自分の力に出来る丈のことは尽すよ。』
『あゝ、左様さう言つて呉れるのは君ばかりだ。君の志は実に難有ありがたい。』と丑松は深い溜息を吐いた。『まあ、打開けて言へば、君の察して呉れるやうなことが有つた。確かに有つた。しかし――』
『ふむ。』
『君はまだ克よく事情を知らないから、其で左様言つて呉れるんだらうと思ふんだ。実はねえ――其人は最早死んで了しまつたんだよ。』
 復また二人は無言に帰つた。やゝしばらくして、銀之助は声を懸けて見たが、其時はもう返事が無いのであつた。
(引用終わり)


このように原作の中で成し得なかったことを視聴者にわかりやすく、かつ教訓的意味合いを持って挿話されている箇所である、という意味ではこの変更もなかなか味わい深いものとなってきます。これも新しく映画化する意義を感じると同時になるほどなあ、と思った部分でした。


○その他小ネタ
・お志保が死んだかもしれないと思わせる描写
原作で、蓮華寺にいられなくなったお志保が厳しい継母の元に戻されるかもしれない状況に陥った時、丑松が『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。』と思う場面があります(第十九章の(一))が、映画で風間家の長男の弔いがある描写ことで、あのミスリードが再現されてるのにはポイントが高かったです。上記引用もそれらしいような書き方ですがまさにこれです。
(*ちなみに風間家長男は原作では省吾に家庭事情を聴いた際に既に戦死しているのでこの戦死の弔いのシーンも映画オリジナルです。本当よく考えられてますね…)
・映像技術「銀残し」
これはパンフレットに書いてあったことですが、フィルム映画の現像時に落としてしまう銀の成分を敢えて残すことで彩度を落とす「銀残し」という技法があるそうです。これによってコントラストを濃く、彩度を薄くできるそうですが、本映画はそれをデジタル技術で疑似的に再現しているとのこと。全体に滲む明治の重々しさにはこうした映像の工夫があるのですね。

・猪子蓮太郎や丑松の父親について
告知映像がお志保メインだったので猪子さんについてはあまり出ないのかな?と思っていたのですが演説会が追加されるなど非常に出番があったので個人的には全体的には高評価でした。何より映画の蓮太郎、力強く演説する様子が滅茶苦茶カッコイイ…丑松が出自を蓮太郎に告白しようとして父の言葉をリフレインして思いとどまるシーンが凄い原作通りだったのでタイトル回収もかなりうまかったんじゃないでしょうか。
逆に丑松の父親が死去したという話は全くバッサリカットされていたのでそこだけは尺が足りなかったかなと解釈しました。島崎史的には比較的重要な部分ですが、まあ軸が差別問題だとしたらあそこは時間的に削らないと厳しいですよね。

総括:
個人的に視聴中に「ん?」と思った部分もパンフレットを購入したことで全部納得できたので、原作のファンであれが足りない、ここが足りない、と感じた方はパンフレットを購入してインタビュー記事を読むのが一番いいと思います。決して大衆・現代人向けにアレンジしただけではなく、監督も脚本家も原作を読み込んだうえでの創作・挿話を提案している点に個人的に大変好感が持てました。寧ろ原作が公開された当初に問題視されていた点や登場人物のバラツキなどをうまく調整して一つの映画の中にきっちり仕上げて来ているという意味ではかなりよく出来た映画だと思います。可能であればこの映画は、現代人である何の知識もない人が見て共感してくれればいいなと思っていますが、如何せん非常に上映館が少ないのが勿体ない…社会問題を取り扱ってるだけにもっと多くの人が気軽に行けるような場所で公開されて欲しかった…!
ちなみに自分は島崎藤村の貴重な映像作品の内の一つなのでDVDかBlu-rayは必ず買いたいと思います。出来れば今度はもう一回『破戒』を全部読み直してから見たい。
今後も末永く島崎藤村の『破戒』ひいてはこの映画が広く人々に読まれる・見られる事を一読者として願っています。水平社創立百周年の節目とのことですが、偶然にも島崎藤村生誕150周年の年の映像化、本当に感謝したいと思います。令和の年に藤村の映像作品が見られる世の中万歳。

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