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【感想・考察】文豪とアルケミスト「奇襲作戦『文學界』を浄化セヨ」

以前からプレイしている文豪とアルケミストにて、「奇襲作戦 『文學界』ヲ浄化セヨ」というイベントが始まりました。
このイベントでは、島崎藤村の親友である北村透谷が初実装・確定報酬となり、私も告知を見た瞬間に思わず何度も内容を見返してしまったほどの衝撃でした。(以下、文アルのキャラのことをひらがなで、ご本人のことを漢字で表記します。また、引用は//////////////////で囲います)

文アルはリリース日からずっとプレイしているゲームであるだけに、ここに来るまで様々なイベントや、アニメ化、舞台化などその動向を見守って来たのですが、今回遂にとーそんクラスタ待望のとーこくが実装ということでTwitterでチラ見せの段階から様々なとーこくさんを描いたイラストが上がるなど、イベント開始前から凄い賑わいになっていました。
私もいち藤村(とーそん)ファンとして実装を非常に楽しみにしながらTwitterを見ていたりしたのですが、実際、いざイベント開始当日、プレイして見ると思うところが非常に多くボリューミーな回想で、とても全て思ったことを簡単に纏められそうになくなりました。
フルボイスだったり、帝國図書館に来てからの彼らの友情だったり、その他もろもろ……兎に角最初から最後まで一言一句こういう意味がありそう、というのが次々浮かんでしまって、余りにも手の付けようがないような状態です。正直今はどれだけ時間があっても足りない気しかしません。リリース開始から4年、藤村の著作を手に取り、其の作品の中で透谷についての言及があるたびに、文アルでは一体どんな姿で実装されるのだろう、と考え過ごしてきただけに、今回のとーこくさんの姿を見て驚いて困惑してしまったくらいです。

そして今回、twitterで様々な方が感想や回想に対しての思いを語っているのを見ながら、私も少しで良いから今の考えを整理して綴っておこう、と考え、一旦思ったところから描きだしてみることにしました。
とりあえずは一旦、最初にプレイしてまず思った3点を中心に、著作を引用しながら簡単に考えたことを書いていこうと思います。
以下はあくまで「こう解釈できそう」というのを拾ったものですので、個人的なものとして受け止めてください。

※一部ネタバレありますのでご注意ください。

〇内装に牢が出て来た件について
まず今回の奇襲イベントで驚いたのが内装に牢が実装されたことです。
牢は、透谷・藤村それぞれの著作にモチーフとして象徴的に描かれる存在であり、特に北村透谷に関しては『楚囚之詩』『我牢獄』のいずれにも主人公が牢に囚われる様子が描かれます。

//////////

 もし我にいかなる罪あるかを問はゞ、我は答ふる事を得ざるなり、然しかれども我は牢獄の中うちにあり。もし我を拘縛こうばくする者の誰なるを問はゞ、我は是を知らずと答ふるの外なかるべし。我は天性怯懦けふだにして、強盗殺人の罪を犯すべき猛勇なし、豆大の昆虫を害そこなふても我心には重き傷痍しやういを受けたらんと思ふなるに、法律の手をして我を縛せしむる如きは、いかでか我が為なし得るところならんや。政治上の罪は世人の羨うらやむところと聞けど我は之を喜ばず、一瞬時いちじの利害に拘々こう/\して、空しく抗する事は、余の為す能あたはざるところなればなり。我は識しらず、我は悟らず、如何いかなる罪によりて繋縛の身となりしかを。
 然れども事実として、我は牢獄の中うちにあるなり。

北村透谷『我牢獄』

//////////

//////////

(前略)

   第二

噫《ああ》此《こ》は何の科《とが》ぞや?
 たゞ国の前途を計《はか》りてなり!
噫此は何の結果ぞや?
 此世の民に尽したればなり!
    去《さ》れど独り余ならず、
吾が祖父は骨を戦野に暴《さら》せり、
吾が父も国の為めに生命《いのち》を捨《すて》たり、
 余が代《よ》には楚囚となりて
 とこしなへに母に離るなり。

   第三
獄舎《ひとや》! つたなくも余が迷《まよい》入れる獄舎は、
 二重《ふたえ》の壁にて世界と隔たれり、

(後略)

北村透谷『楚囚之詩』

//////////


また島崎藤村の『春』にも青木(モデルは透谷)が夢の中で牢屋に囚われる場面が描かれています。

////////////////
「青木君、何故君はこんなところへ来ているんだい」と言う人があった。「何故ッて、ここは僕の家じゃないか」こう青木は答えた。 不思議にも、部屋の窓には鉄の格子が填《は》めてある。書棚《しょだな》のあるべきところには書棚がなくて、そのかわりに天然の巌石がある。その巌の鼻には今にも倒れて来そうな石が危《あやう》く懸っている。部屋の入口の開いたところから、虎の檻《おり》が見えて、しかもその檻は是方《こちら》へ向けて戸を開けてある。横の方の窓から何か覘《のぞ》いているものがあったが、よく見ると可怖《おそろ》しい毒蝮《まむし》であった。「ここは何処《どこ》だね」と青木は知らない人に聞いて見た。「解りそうなものだなあ――牢獄《ろうや》サ」とその知らない人が言った。 そう言われて見ると、部屋は堅固な鉄の塀《へい》で囲んである。青木自身は鋼鉄《はがね》の鎖で繋《つな》がれている。鎖の長さだけより外に歩くこともどうすることも出来ない。「だから僕が君に聞いてるじゃないか」と知らない人が言った。「何故君はこんな処へ来ているんだッて」「別に僕は法に触れるようなことを為《し》た覚が無いよ。見給え、僕は臆病者《おくびょうもの》だ。強盗をしたり殺人《ひとごろし》をしたりするような、そんな勇気のある男じゃない。僕は昆虫《むし》を殺しても気が咎《とが》める――それほど意気地の無い人間なんだからネ」 こう青木は言ったものの、現在牢獄の中に居るということは事実だ。何の罪があってここへ来ているのか、誰に縛られてこんな処へ押込められているのか、それは青木にも答えられない。自分の家だ、家だ、と思っているうちに、何時《いつ》の間にかこんな牢獄の中に入っていたのである。 部屋の隅《すみ》には、種々《いろいろ》な人が集まっていた。中には気楽な酒宴《さかもり》の真似《まね》なぞをして楽んでいるものもあった。そういう手合は、牢獄の番人が通る度に掌《て》を合せて拝んだり、難有《ありがた》そうに御辞儀をしたり、どうかすると番人の足を頂くような、可笑《おかし》な真似をしたりした。 気まぐれものの蝙蝠《こうもり》が窓から入って来た。「オイ、誰か婆婆《しゃば》に居る人で、この蝙蝠の顔に肖《に》たものはないか」と一人が言えば、「どれ、面《つら》を見せろ」とまた一人が言出して、各自《てんで》に蝙蝠を捕《つかま》えようとして、部屋中追い廻した。 何がなしにこの騒ぎが可怖《おそろ》しく思われて、青木は窓の方へ逃げた。彼は自分の書いた草稿を読む積りであった。鉄の格子に捉《つかま》りながら窓の外を眺めると、悄然《しょんぼり》としてそこに立っている人の姿がある。胸の上に手を組合せて、眼を瞑《つぶ》って、女らしい口唇《くちびる》をすこし突出したところは、何かこう言いたいことが有って、しかもそれを言わずにいると言ったような風である。蒼《あお》ざめた頬《ほお》には最早昔の色香が無い。「オヤ」と青木は思わず知らず手を出して、その人を牢獄の中へ引入れようとして、眼が覚めた。

(島崎藤村『春』六十二)

////////////////

この「何の罪なのかもわからない状態で牢に閉じ込められている」というのは『我牢獄』にも通じる精神です。明らかに意識して書かれているように思います。
この後岸本(モデル:藤村)は、青木を亡くし、兄が逮捕されたことで心を病む描写が描かれますが、今度はその際に同じく岸本が牢に閉じ込められるイメージを持ちます。

////////////////

「――自分は今、眼に見えない牢獄《ろうや》の中に居る。鍛冶橋に居る兄さんの為には、あれほど他《ひと》が大騒ぎしても、自分が苦んでいることを見てくれる者が無い。ああ病人は寧《むし》ろ幸福《しあわせ》だ――身体の頑健《じょうぶ》なものはそこへ倒れるまで誰も知らずにいる」
 到頭岸本はこういうことを考えるように成った。七月の下旬、ぶらりと大根畠の家を出て行こうとする頃の彼は、最早|何事《なんに》も為《す》る気の無い人であった。

(島崎藤村『春』百二十)

////////////////

このように、透谷は勿論藤村も著作の中に牢獄に捉われる登場人物・青木、そして自身がモデルとする岸本を描き、牢のイメージを読者に打ち出してきます。


他にも藤村は『夜明け前』において半蔵(モデルは藤村の父・正樹氏)が晩年座敷牢に閉じ込められた話を書いています。
これは同時に『春』にも兄・民助(≒藤村の兄・秀雄がモデル)が岸本の手を見るシーンで少し触れられます。

////////////////

父は足袋《たび》も図無しを穿《は》いた程の骨格であったから、大きさは比較に成らないが、弟の手は父のを若くしたというまでで、形ばかりでなく、蒼白《あおじろ》い表情までも実によく似ていた。(中略)
これという事業《しごと》も残さず、終《しまい》には座敷牢の格子に掴《つか》まって、悲壮な辞世の歌を読んだ人の手がそれだ。
「捨吉も年頃だ。そろそろ阿爺《おやじ》が出て来たんじゃないか」

(島崎藤村『春』五十)

////////////////

夜明け前については最早有名なエピソードかと思うので一度引用は割愛とします。


藤村・透谷の双方がこれだけ多くの牢のイメージを著作に盛り込んでいる状況を知っていると、あの内装がただ単純な「牢屋の一枚絵」とはどうしても思えなくなってきます。やはり意図的なものと考えるのが妥当でしょう。
正直この時点で「何と業の深いことを……」と唖然としたのは言うまでもありません。何せ、奇襲作戦で初めて転生してくるであろうとーこくを迎えるタイミングで牢の内装ですから、とーそん・とーこくそれぞれからの意味合いを持って描いたのだろうと想像できました。そして一方、装像でとーこくが外に出てくる開放的な表情を見てしまうと、非常に重い意味づけを打ち出してくるな…と思いました。


〇なぜ文アルのとーこくはとーそんに異常な執着を示す存在になったのか
透谷を多少齧った人ならわかるかと思いますが、本家・北村透谷という人物が島崎藤村に対して当てて書いたものはそれほど多くありません。『古藤菴に遠寄す』という詩が、明確に藤村を差して書かれたものである、というのは間違いないですがそれ以外となると書簡が主ではという印象です。(ただし私はあまり透谷のことを深く知っているわけではないのであくまで藤村との対比で考えた場合、と捉えてください)

//////////

一輪《いちりん》花の咲けかしと、
   願ふ心は君の爲め。
薄雲《はくうん》月を蔽ふなと、
   祈るこゝろは君の爲め。
吉野の山の奧深く、
   よろづの花に言傳《ことづて》て、
君を待ちつゝ且つ咲かせむ。

北村透谷『北村透谷詩集‐古藤菴に遠寄す』

//////////

古藤菴とは、藤村の文學界時代のペンネーム、古藤菴無声のことです。とても美しい詩です。


一方で島崎藤村が北村透谷に向けて書いた内容は無数に残っています。回想内でも言われている通り、『桜の実の熟する時』や『春』といった作品では透谷自身の作品を自身の作品でも引用する等、藤村→透谷に対する執着は強いですし、他にも『北村透谷の短き一生』『北村透谷君』『北村透谷二十七回忌に』『亡友反古帖』など、上げるだけでもキリがないほど藤村は北村透谷のことを多く書いています。何ならあの『芥川龍之介君のこと』にでさえ北村透谷の名前が出てきます。藤村の書くものを一カ月程度読めばすぐに何らかの北村透谷の記述に行き当ることができるでしょう。
従ってこの二人の関係は史実的に言えば明らかに藤村→透谷であり、それを知っている人から見れば今回の回想でとーこくがとーそんに執着する描かれ方は単純になぜそうなったのか疑問にすら思えます。「文豪同士の関係性」を売りとしているゲームで本来の関係性とは反対の関係性を採用する、というのはある種奇妙な話であるしましてや初期の頃のアクタガワとソーセキの年齢差などにこだわって作った運営からするとこの関係性の逆転を無意味に採用しているとは考えにくいようにも思えました。単純にキャラづけや話題性のためにそうなったと安易に結論付けることも出来るでしょうが、個人的にはその発想は全て手を尽くした後に結論すべきだと考えています。深堀が出来るまでは追求していった方が面白いし為にもなる。「解釈違い」の一言で切って捨てずに、アレコレと考えを巡らせてみたい。

というわけで以下はその理由について考えてみたいと思います。まず考える必要があるのが「文アルの世界観制約・特定のルールに基づいてこの関係性が採用された可能性」です。
私が思うに今回の話のルールは2つ、「とーこくがとーそんの影響下にある存在として生み出されたこと」そして「女性向けゲームとしての制約があった」です。そして結論から言うと、大胆な仮説ながら、この2つの理由をもってとーこくが北村透谷像を帯びて転生するために、とーそんが大好き、という設定を付け加えられたのではないか、と考えました。

・とーこくはとーそんの影響下にある存在として生み出された
 文アルのキャラクターを構成する要素は、文豪本人のエピソードだけではありません。著作もその要素のうちの一つであり、ミヤザワケンジやニイミナンキチなどを見ればわかる通り、文豪の代表作もキャラクター造型に大きく影響をしています。
透谷の代表作と言えば『蓬莱曲』『楚囚之詩』『厭世詩家と女性』などがあげられますが、殊今回に至っては島崎藤村著『桜の実の熟する時』『春』の影響も大きいと思います。ゲーム内でも触れられている通り、著作内の一登場人物として、北村透谷をモデルとした人物(青木)が登場しているためです。
ただしとーこく自体が『桜の実~』『春』を元にして転生したのであれば、『桜の実~』や『春』に忠実な人物像として現れもするはずです。しかし、ゲームではそうもなっていない。両作品にも、そもそも青木(≒透谷)が岸本(≒藤村)に依存気味になる流れなどはなく、青木が妻・操(≒モデル:透谷の妻・石阪美那子)と結婚してから苦難の人生が淡々と語られていくに留まっています。すなわち、これらの著作が元になっている、とは考えにくいのです。

次に考えられるのが、”『桜の実~』や『春』を通して透谷の文学が後に語り継がれることになったという作品流布の背景”です。
これは藤村自身が語っていることでもありますが、透谷の著自体が文學界の原稿を収集した藤村を介して世に広まったという経緯があります。散逸した原稿を集塊し『透谷集』にまとめたのが藤村その人であり、そういった意味では藤村が透谷の著をまとめなければこの令和の時代に北村透谷の著作が読めなくなっていた可能性すら高いのです。

////////////////////
(前略)

彼の絶筆ともいふべき『エマルソン』(民友社出版、十二文豪の内)の評伝は未完成のまゝの原稿を私が引き受けて整理したものであり、彼の遺稿として最初に世に公けにした『透谷集』(文學界雑誌社出版)は私が編んだり校正したりしたものであつた。たしかあの最初の集は雑誌『文學界』の同人であり編集者であつた星野君兄弟の手で七百部印刷し、それきり絶版したかと思ふ。
私があの友人と交つたのは亡くなる前の四年間位に過ぎないが、しかしその短い間が私に取つては何か一生忘れられないものであり、透谷が死んだ後でも、書いた反古《ほご》だの、日記だの、種々書き残した手紙なぞを見る機会があつて、長い年月の間にあの友人のことを考へて見ると、掘つても掘つても尽きないやうな種々なものが後から/\と出てくるやうに思われた。これほど私が透谷のことを忘れないといふのも、一つは自分の年の若く心の柔から青年時代にあの友人と知合になつたからでもあり、一つはあの友人の書き遺したものを纏めて置かうと思ふほど深い縁故のあつたからでもあるが、就中《とりわけ》私があの友人から感化を受けたことの深かつたからであらう。彼こそはまことの天才と呼ばるべき人であつたと思ふ。

(後略)

島崎藤村『北村透谷の二十七回忌に』
※旧字は新字に改めました

////////////////////


この背景を考えると、文アルの場合、とーこくにとってとーそんは親のような存在であり、自身の存在の拠り所とさえなっているといえるのではないでしょうか。だからこそ侵蝕者化したとーこくはまずとーそんに接触して有碍書の中に閉じ込めようとするし、とーそんのことを(異常なまでに)持ち上げるし、その周辺にいるカタイやドッポやシューセーから切り離そうともする。侵蝕者化したとーこくにとって、カタイやドッポやシューセーは自分と馴染みのない人間であり、とーそんと自身を分断する邪魔者である。とーそんを手中に収めてしまえば、侵蝕者としての自分は自身の世界を滅ぼすこともできる、と考えることさえ可能です。
話が反れましたが、上記の通り透谷の作品が藤村を通して後の世に伝えられたことが、「とーこく自体の存在がとーそんの存在を依り代にしている」という設定となり、異常な執着心の要素の一つとなっているのではないか、と考えられるように感じました。これがまず第一の要素です。そしてこれに加えてもう一つの要素が、とーこくの依存に影響してきます。

・女性向けゲームとしての制約

 事前情報としてとーこくの見た目は

//////////////////////////////
「我は十二三の嬋娟たる少女となりて野花を摘むの無邪氣に反へることを得ば死すとも恨むところなしと」
(≒私は十二三歳のあでやかで美しい少女となって野花を摘むような無邪気な人になれれば死んでも悔いはない)

(北村透谷『幽鏡の逍遥』)
/////////////////////////////

という記述に立脚しているものではないか、という指摘が、一プレイヤーによってされていました。 もし本当にこの記述を元としてとーこくの見た目が設定されているならば、多少の違いはあっても転生後の見た目は12、3歳程度ということになります。この頃の透谷はまだ故郷の小田原にいる年齢であり、その詳細は不明な部分も多い状況です。透谷が『文學界』の活動を通して有名となったのは21歳ごろの話であり、彼の恋愛思想の根幹を成す妻・美那子と出会ったのもこの21歳周辺です。即ち、12、13歳の見た目で転生したのであれば、そもそも文学に触れる前、と言えます。ですがこれはあくまで「死すとも恨むところなし」という透谷の願望の話であるため、完全に史実として12,3歳にしていたこととはあまり関係がありません。どちらかというと重要なのは、「恋愛至上主義」の根となる妻と出会っていない年齢であることです。
 北村透谷という人物を考えた場合、何よりも先に思い出されるのが「恋愛至上主義」を唱えた、ということです。正確には、『厭世詩家と女性』で示される「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」という一言から始まる論考を発表したことで島崎藤村を引き寄せ、彼のその後の文学活動に大いに影響した、という点です。
これは北村透谷を語る上でこれは外せない要素の一つであり、根幹となっているのは妻・美那子氏との恋愛体験であるのは言うまでもありません。このように“恋愛”が根幹にありながらも、文アルのとーこくにはその対象となる人物がいない状況です
文アルはゲーム内で妻の存在を詳らかに語ることも女性向けゲームとしては避けたいよう(事実、どんな愛妻家の文豪を実装してもゲーム内で妻への愛情と取れる台詞を実装しない)です。これは文アルが女性向けゲームである以上ある程度念頭に置いておくべきかも知れない重要な制約の一つである、と個人的には思えます。
妻との恋愛に端を発した論考を、妻抜きで語るにはどうすればいいか。非常に難しい描き方になると思いますが、そこで取れる方法が、この“恋愛”を何か別の方法で表現するか、あるいはなかったことにしてしまうかのいずれかだったのではないでしょうか。文豪ゲームとしてこの要素を無かったことにできない文アルは、恐らく前者を採用し、“恋愛”をまず「(自身の存在を残した)とーそんが大好き」という方向に転化し恋愛至上主義透谷の存在を何とか表現しようとしたのではなかろうか、と思いました。事実、とーこくはとーそんに手紙を書こうとするなどそれらしい言動をしていますがこれは女性向けゲームで元作家の代表作的思想を為す“恋愛”を何とか表そうとしているための苦肉の策なのでしょう。そして最初の、転生年齢が12・13歳程度という仮説と合わせてこの話を俯瞰して見ると…とーこくの全体像は「恋愛至上主義」の要素を残しつつ「自身の存在を残したとーそんに猛アピールしてくる造型」にした、著作と史実のハイブリッド型であると捉えることも出来そうな気がします。

本家透谷はかつて生活に立ちいかなくなり、次第に精神を病み、妻を誘って心中しようとします。ですが、その際妻に「自分には子供がいるから」と断られます。これはかつての妻・美那子氏が談話『春と透谷』に書いています。
今回の回想の侵蝕者版とーこくのとーそんへの過激な言動は、そんなかつての妻の位置に別人を当てはめた影響によるもの、なのかもしれません。

ここまで読んでそんな表現の仕方しなくても…と思った人もいるかもしれないので参考までに。
実は散策で信頼度を50以上に上げるととーこくは司書に対しても「大好きだよ」と言って来ます…彼にとっての「好き」の意味合いは信頼してる的なニュアンスなのでしょうか。今後の描かれ方にも注目したいところです。


〇本家透谷『厭世詩家と女性』と、文アル回想『厭世詩家と浪漫派詩人』の相違点と共通項

上記を前提として、参考までに北村透谷的“恋愛”と、文アルのとーこくの挙動による"恋愛"と思しき箇所の違いなども考えてみたいと思います。ただし、本家の方は当然時期によって考え方に変遷があることを考慮し、ここでは回想のもととなっているであろう原題『厭世詩家と女性』を考えることで検証を試みます。

本家・透谷の恋愛至上主義というのは、想世界(本来人間が生まれながらに理想として持つ世界)と実世界に分かれており、想世界で最後に残るのが恋愛であり、その詩人に従えば結婚した女性も悲劇的な結末を辿るという趣旨らしいです。なぜ女性にとって悲劇かというと、詩人は以下のように恋愛を至上とすることで、結婚によって詩人が理想としている恋愛は実世界(世俗)に落ち、死によって世俗と物質界とを脱出する、という発想となり、それに付随し付き従う女性も端的に振り回されるから、といったところのようです。

////////

・生理上にて男性なるが故に女性を慕ひ、女性なるが故に男性を慕ふのみとするは、人間の価格を禽獣の位地に遷す者なり。春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは、古来、似非小説家の人生を卑しみて己れの卑陋なる理想の中に縮少したる毒弊なり、恋愛豈単純なる思慕ならんや、想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり。

 (→生理的に男であれば女を慕い、女であれば男を慕うとするだけの人は、人間の価値を禽獣の地位に貶める人だ。性欲が発生すると同時に恋愛を生じると言う人は、昔のエセ小説家の人生を卑しんで自分を小さな理想に収縮している弊害を受けた者である、恋愛がどうして単純な思慕であろうか、想世界と実世界の戦いより、想世界の敗将に立て籠もらせる牙城となるのが、即ち恋愛である)

・恋愛によりて人は理想の聚合を得、婚姻によりて想界より実界に擒せられ、死によりて実界と物質界とを脱離す。抑そも恋愛の始めは自らの意匠を愛する者にして、対手なる女性は仮物なれば、好しや其愛情益発達するとも遂には狂愛より静愛に移るの時期ある可し、此静愛なる者は厭世詩家に取りて一の重荷なるが如く(後略)

 (→恋愛によって人は理想の聚合を得る、婚姻によって想界から実界に捕らえられ、死によって実界と物理界を脱出する。そもそも恋愛の始めは自らの立場を愛する者であり、相手である女性は仮の物であるので、よしやその愛情による利益が生じたとしても遂には狂った愛から静かな愛に移る時期があるだろう、この静かな愛というものは、厭世詩家にとって重荷のようなものである)

・嗚呼不幸なるは女性かな、厭世詩家の前に優美高妙を代表すると同時に、醜穢なる俗界の通弁となりて其嘲罵する所となり、(中略)遂に其愁殺するところとなるぞうたてけれ、うたてけれ。

 (→ああ、不幸なのは女性だ。厭世詩家のために、品があり、極めて優れているを代表すると同時に、醜く汚らわしい俗世との通訳になってそのあざけり罵られるところになり、(中略)遂にその非常に嘆き悲しむことになる、気の毒だ、気の毒だ)

北村透谷『厭世詩家と女性』

※カッコ内の訳文:筆者

//////////

論全体が、何とも詩人、哲学的・厭世的・自己愛的です。そもそも女性への愛は自己愛への借り物であり、その愛自体が実界と物理界から逃れるためには死が救いであるかのような…確かに夫がこういった思想の持ち主の女性ならば、女性は詩人の妻たる名誉と引き換えに、彼らの難解な言葉を世の中に翻訳し、片手で子供を育てながら生活もして、夫も支えて…と大変なこと三昧。そして、最後には自身の理想を求めて夫に死なれでもして客観的な立場からは悲劇でしょう。
そして詩人の側からすれば何なら結婚は人生の墓場とはまさにこのこと。詩人の恋愛的には結婚したら実界入りしてしまうので至上ではないらしいです。何というか…結婚すると詩人は自身の思想を世俗に落とすことになり、女性は気難しい男性に付き合わなければならない…お互い幸せになれない…だから恋愛至上主義って感じですね。



そう考えると割と図書館のとーこくが表現する「恋愛」というのは、こうした厳密な透谷文学の定義枠から外れ、一般的な分かりやすい「恋愛」の形に置き換えられているようですが、文アルの回想「厭世詩家と浪漫派詩人」の詩人で出てくる以下のやり取りは、「想世界」に引きこもりになる詩人そのものと重なる部分もあり、やはり少し示唆的なニュアンスを感じます。


///////////////////
(以下はイベストの引用につき、表記は対ゲーム内の文豪の話です)

藤:二人でこの世界の終わりを見届ける……それは無理だよ透谷
透:どうして?
藤:君はとても不安定な存在なんだ
  この本が崩壊しかかっている今、君はいつ消えてもおかしくないんだよ
  ほら……もう身体が透き通って、消えかけている……
  君の魂が消える前に、ここを出ないと。僕達と一緒に転生しよう、透谷
透:…………………
  ……その先になにがあるっていうの?
  また終わりのない苦しみの中で生きて行かなきゃいけないの?
  書いて、書いて、書いて、全ての力を込めて思いをぶつけて、それでも駄目だったんだ……
  僕の思いは届かなかった。もう嫌だ。もう書きたくない
  だったらここで消えても構わない……
藤:透谷……君の苦しみは分かるつもりだ。僕も同じ気持ちを味わった
  書く限り、生きたいと思う限り、苦しみからは逃れられない
  君の最期を考えたら、転生してくれっていうのは酷なことかもしれない……
  でも、こんな場所で死ぬことが本当に君の望みだったの?
  広い世界を見に行って、新しい詩の世界を拓こうとしていた君は
  本当にいなくなってしまったの?
  僕は違う。君の世界をもう一度見たいから、ここに立ってるんだ
  また一緒にやろうよ、透谷
  失敗するかもしれないけど……何度挫折しても、僕はずっと君の傍にいるよ
  君は天才だった。ほかの誰にも書けない詩が書ける唯一無二の人間だった
  目を覚ましてよ、透谷!
透:………………っ
  ……僕はもう、詩人じゃない。あの時みたいな詩は書けないんだ
  僕の心の火は消えたんだ
  この『文學界』を消す前に……まず自分の作品を全部消した
  僕の、北村透谷の詩は、何も残ってないよ
  僕はもう詩人に戻れない

文豪とアルケミストイベント 『文學界』ヲ浄化セヨ「厭世詩家と浪漫派詩人」より

///////////////////

上記で言う「この世界」が本家『厭世詩家と女性』の「想世界」といったところでしょうか。
このあたりは、史実でいう妻のポジションがとーそんに入れ替わっていること、そして「一緒にこの世界の終わりを見届けてほしい」ととーこくと共に破滅宣言されていることを考えると、色々と考えさせられる場面です。
「君の最期」……すなわち妻に共にあることを提案しても断られ自死したことを考えると、とーそんがとーこくの転生を酷だ、と表現することも分かります。
「また終わりのない苦しみの中で生きて行かなきゃいけない」という言葉も大変重いですし、だからこそ後半の「君の世界をもう一度見たい」という願いが希望のようにも思えます。とーこく→とーそんの激しい感情に目が行きがちですが、やはりとーこくを救おうとするのも、またかつて著作を集めて世に出したとーそんに近しい行動とも考えられます。



さて、今回は『厭世詩家と女性』を中心として、文アルのとーこく像について簡単に考えてみました。
やや文学の話に寄ってしまいましたが、これでほんの回想の一場面の感想…なので非常にボリューミーです。時間があったら他のシーンの感想・考察も考えてみたいところですが、あるかなぁ…

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