以下、脳内だだもれ注意。(笑)
夏休みボケと言うか、夏休み中ずっと小説のネタに頭を詰めすぎていたためなのか、人間の幸福が思考の中にあることに疑いを持ち始めた自分がいる。
確かに考える事は重要で面白いことなんだけれども、歩いているときも何かを見ているときも、ふと我に返ったときなんかにネタを考えようと試み続けたためなのか、脳みそが徐々に考えることを拒否しつつあるような気が。
今までは考えることが楽しいことだと思っていたのに、これは決定的な転機を迎えた証拠なのだろうか。考えることに大した価値をおかなくなりつつあるということをいったん自覚してしまうと、じゃあ私は何に対して喜びを感じ、満たされているのかと、ふと思ってしまうことがある。ご飯をお腹いっぱい食べられても、欲しいものが手に入っても、勉強が出来ても、誰かと面白い話で盛り上がっても、時間をたくさん与えられて好きなものに触れることが出来ても、今となっては満たされることがない。だから小説なり論説なりを読んで考えることが楽しいのかと思っていたけど、どうもそれも脳みそがついてこなくなりつつある。
で、思ったのが『人の幸福』についてだった。そりゃあ、そんなものは個人の価値観によるものだから一概に決める事はできないんだけれども、以上のことから考えてみると、私の幸福というものは一体どこにあるのだろうと思ったわけだ。何に対しても満たされることがないのならば、何に対して喜びを感じればよいのか。最近、それは寝ているときだという結論を見つけた。寝ているときこそ自分が意識から解放される瞬間であって、そこに何にも縛られない自分があるのではないかと、思ってしまったのだ。
要するに疲れてるだけだろ、と突っ込みを入れられればそれまでなんだけど、理性的になりすぎていた私にとってはある意味これは救いの声だったように思う。今までは極平凡な日常を呪って自分の存在やらアイデンティティやらを探求し続けていたんだけれども、そうした考えが逆に自分を縛り付けているのだと知ったわけだった。平凡な生活はいいことではないが、悪いことでもない。日常に生きると言うことを意識しすぎていた私は、どこかで突出した部分を見い出そうと躍起になっていた。しかし振り返ってみれば、日常はやさしく穏やかに、まだ背後に存在していた。駆り立てられていた自分を支えてくれるのもまた、忌み嫌っていた日常だったわけだ。
人間、現状に満足することなど出来ないのだと思う。でなければヒトは進化を欲しない。食うに困らないのによりよい生活を求めて金を追うのも、その一種だろう。けれども、考えてみれば、身の回りに必要じゃないものなんて結構たくさんある。最低限必要なものをそろえるだけで、日常は整えられる。進化を追い求め続けて失敗したとき、どうしようもなくなったとき、ふと顧みて最も安心する場所と言うのが、私の場合睡眠、というだけの話だった。ともすれば、私の幸福というものは睡眠の中にある、何も考えない状態、無意識の状態ということになるわけであり、それは同時に生きていることへの諦めともとれるかもしれない。
何てか、今死んでも精神的には何の悔いもない気がする。抵抗するような不満もないし。昔はすっごいいろんなこと考えすぎてて死ぬこととか意識しすぎてたんだけど、今はもうどうにでもなれって感じで。次の瞬間地震が起きたら何の抵抗もなく死んでしまえそうだ。ただただ流されることが、これほど心地よいということに気づかなかっただけなんだな、今までは。だから生まれ変わったらクラゲになりたいとか言い出すんだよ。何も考えずただ波に任せて体を揺らしているだけの生き物と呼べるのかも怪しい動物。要するに、何年も考え続けて疲れました、ってことですな。
今から普通に寝ますよ。最近夢も見ないくらい深く眠れるから本当に助かってる。
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