今更ながらに振り返ってみる。
追記から『猫殺』について。
後書きというよりもうあれから5年経ったんだなあ、という思いを込めて当時の心境を振り返ってみる。
これを書いた時の私はある意味狂人じみていた。じみていた、というのは、この小説を書くきっかけとなった現実の出来事が起きていたまっただ中、私は日記も小説も書くことが出来なかったため、実際強靭であったかどうかをはっきりと示す記述がなく、また自分でもよく覚えてないからである。ただ、とあることをきっかけに何もかもが憎らしくなり、自分自身も憎らしくなり、やがて暗澹とした気分で日々を過ごすようになっていた。学校に行ってもあまり人と関わらず、ぼんやりと物思いにふけっては死にたいとばかり考えていた。
『猫殺』は、そんな鬱々と過ごしていた当時の私の心境が、あまりにも端的に表現された作品だと思う。この作品で私が描きたかったものは、ずばり信じていたものに裏切られる、ということだ。それだけは今でもよく覚えている。私は過剰な信頼の裏返しを、この作品に込めていた。膨れ上がる信頼と、それが裏切られたと感じたときの絶望、そしてそれゆえの猫への殺意。思い通りになることなど少ないはずなのにどんどん自分の思い通りにいかなくなる猫に大して抱く破壊衝動。そういう乱暴な欲望が、端的な形となって、この作品には内包されている。
これを書いた時の年齢は確か中学3年だったと記憶しているのだが、当時の私が想像していた大学生というのを、現在大学生になった私が見てみると、やはりどこか現実味を欠いていると言わざるを得ない。まあ、猫が飼える環境というのと、ネズミを解剖するといった偏屈な趣味を持ち合わせていそう、という設定のために大学生にせざるを得なかったのだろうが、それにしてもこの主人公はあまりにも発想が幼い。いやむしろ現在の私だからこそ、当時の発想を幼いなどと言えるのかもしれない。一度通った道は、通り終えてみてから振り返ればただ慣れた道に過ぎないのである。まあいずれにせよ幼い。中学生の破壊衝動がそのまま包み隠さず書いてあると言った感じだ。文章も今と比べたら状況の分かりにくい卑屈な視点から書かれている。さすがに、この作品と今の作品を比べると、自分もそれなりに進歩はしているのだな、と思える。文章的な視点が洗練されてきたというか、素直になったというか。少なくとも意味が分からなくはなくなったと思う。
猫の描写は当時の私でもあからさまに「こんな行動はしないだろう」と思って書いていたのでそれほど突っ込みたくはない。突っ込むとしたらやっぱり文章の方だ。極端に分かりにくい。短文で書いているにもかかわらず状況がつかみにくい。これを見るとやはり中学生だな、という気になる。まあそんなこと言ったら、もっと大人になって大学の時の作品を見返すと「ああ、大学生だな」と思うようになるのかもしれないが。
ちなみにこれを書くきっかけにあたった事実についてはここではあえて伏せるが当時の私の心境と状況を理解している人にはおそらくわかってしまうだろうと思う。別段わかってしまったところで私は困りはしない。ただ自分からは口にしたくない、のである。作品内でもこれだけ生々しい描写を散らしているのだから尚更だ。こんなとんでもない妄想書き散らしたもののきっかけがあること自体が、本来であれば忌々しいことなのである。だが今そんなことを忌避しても仕方がない。書き散らした者の責任は、自分で取らねばなるまい。
ということで、割と重い思い入れがある作品。大事にできるかどうかはともかくとして、自分の中では保存しておくべき対象として、このサイトに載せることに。
初出は中学時代の文藝部の個人誌だったはず。某友人に読ませたら「この主人公は男だろ。これ女だったら退く」という感想を頂いた(笑)ちなみに私がどちらをイメージして書いたか、ということは特に気にしないで頂きたい。あえていうならば、性別をぼかすつもりはあまりなかった、が書いてみたらどっちでも取れるようになっていた。読んでくれた友人は、ネズミを掻きだすシーンでそこそこ気持ち悪がってくれたので自分としては嬉しかった。
でもやっぱり傾向は今でも変わってないな、と思うのです。
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